あの日、私たちが経験したこと
平成二十三年(2011年)三月十一日、東日本大震災が発生しました。宮城県気仙沼市の離島・大島も、未曾有の地震と大津波に襲われました。以下は、当山住職・千田雅寛が、あの日からの体験と、島の人々とともに歩んできた日々を記した手記です。
三月十一日、午後二時四十六分
三月十一日午後二時四十六分……。仙台市で教区の会議中でした。それまでに経験したことのない激震に襲われました。誰もが受け入れ難く、容赦ない大自然の脅威が目を覚ました瞬間だったのです。仙台の市街地は直ちに停電、そして断水になり、留守にしている私の地元・気仙沼市の大島では大津波警報が発令され、自坊境内脇の高台にも島民が避難し、寺庭とやっと携帯電話がつながったのはまさに巨大な津波が猛威を振るっているさなかでした。島民の生活にとってかけがえのない海が恐ろしい牙をむき、島民の大切なものを一瞬にして奪っていくのを目の当たりにしている、電話の向こう側の修羅場は、想像しがたいものでした。
その日の夕方、車中で見たテレビには、石油タンクから油が海へ流出し、住宅火災から引火して火の海になった気仙沼湾が映し出され、市内のあちこちでプロパンガスが爆発する様は、まるで戦争の爆撃を思わせるものでした。途中で道路が寸断されていようとも、とにかく一刻も早く戻らなければという思いで気仙沼市内を目指しました。市内では至る所で火の手が上がり、海を隔てた大島の亀山にも飛び火し、自坊の裏山付近にまで迫っていました。しかし震災直後は島に渡る唯一の手段である船が被災して帰れず、独断で被災を免れた小舟所有者を何とか探し当てて島まで送ってもらったのは、震災当日から三日目の朝でした。
帰島 ― 言葉を失う光景
本土側の甚大な被害を目にして言葉もないまま大島の港に近づくと、湾内には見慣れた家屋や車、そして漁師にとって命と同じくらい大切な船などがひしめき合うように漂っており、いつも島民の足となっている客船とフェリーが、港の商店街のど真ん中に乗り上げそびえたっているではありませんか。目を疑うような光景に愕然とするしかありませんでした。
足元の瓦礫に注意しながら少し歩いていくと、小・中学校時代を共に過ごした同級生を見かけ、何か捜し物をしている様子だったので声をかけました。彼は震災当日、奥さんと一緒に港に来ていて津波に襲われ、彼は何とか助かりましたが、行方不明になった奥さんを瓦礫の中で必死に探していたのでした。私はこれまで自分の立場上何度も檀家さんの不幸に接してきたにもかかわらず、この時ばかりは後の言葉に詰まり、声を発することができませんでした。「過酷すぎる……」――自分の無力さを痛感せざるをえない瞬間でした。
寺としての務め ― 見送ることの重さ
帰宅すると、すでに本堂内のご本尊さまなど三体が火災に備えて搬出済みで、寺庭から「古くからの過去帳類などの避難も済ませているので、津波で亡くなった方々の安置所にすぐ行ってほしい」といわれました。山火事が気がかりになりながらも安置所に着くと、日頃お世話になっていた檀家さんのご遺体が十数名ほど安置されており、まだ見つかってない方もいらっしゃるという状況でした。目の前にある現実をどう受け入れるべきなのか、混乱する感情を何とか抑えながら一歩ずつ前に進むしかありませんでした。
時間の経過とともに迫っている問題は、この非常事態によって亡くなった方々の「通常の葬儀」ができないということでした。甚大な被害により、各方面の流通・供給が寸断され、ご遺体の搬送車両、火葬のための燃料、そして膨大な犠牲者数に対する棺等々の確保が困難となり、結果として土葬という近年稀な形式を採らざるをえませんでした。土葬場所は本堂の裏手の雑木林の一角を提供することにして、ご遺体の状態から一刻も早い対応が求められました。ご遺族の方々のご理解によって、混乱もなく速やかに対応できたことに心から感謝しています。
亀山の火災 ― 本堂を守るための決断
その頃、亀山の火の手はとうとう山内の旧墓地付近に達していました。山林からの引火を確実にくい止めるために、境内西側の護摩堂とそれに並ぶ二十畳の和室を解体するという苦渋の決断をしなければなりませんでした。程なくして解体のための重機が二台境内に配備された時は「地震や津波から難を逃れても、火災に屈してしまうのか」と、こみ上げてくるやりきれない気持ちを抑えられませんでしたが、何としても本堂の焼失だけは免れたい一心でした。
幸いなことに連日の強風も止み、本土の市内の火災も範囲が狭まったことで、大島でも消防庁のヘリによる消火活動が可能になり、消防隊員をはじめ多くの方々のおかげで、境内地寸前のところで火災をくい止めることができ、一週間近くも島民を不安に陥れた亀山の火災も、ようやく鎮火したのでした。
孤立の中で ― 島民たちの絆
一時は全島民避難ともいわれ、自宅で寝たきりの方々が避難所への移動を余儀なくされたため、その影響で体調が悪化し亡くなられた方も少なくはなく、胸が痛みました。しかし頻発する余震の中、ライフラインが全く途絶え孤立してしまった島民にとって、本当の苦難は始まったばかりなのです。
昔から生活用水として使用してきた境内地脇の小川にも、多くの方々が洗濯しに来ました。いつの間にか洗濯場は島民たちの間で良いコミュニケーションの場となったようです。そして必ず誰もが「がんばっペね」と笑顔で挨拶を交わし、それはお互いの心を支える合言葉となっていたように思います。
陽が沈むと容赦なくやってくる暗闘…。倉庫で邪魔者扱いされていた古いろうそくが、ようやく役立つ時がきました。寺の住職としてそれぞれの檀家さんの求めに対応させていただくことが急務と思い、毎晩不自由に思われたろうそくの明かりも大変ありがたく感じるようになりました。
先祖さまとともに ― 春彼岸の日
人知を超えた大自然の脅威に遭遇して十日後、春彼岸が来ました。お檀家さんは、過酷な状況にあっても墓参りをし、無事だったことをご先祖さまに報告する一方で、津波で無惨な姿になった我が家に戻り、小雪が舞う寒さの中、ご先祖さまのお位牌を泥まみれの瓦礫の中から必死に探す方々も多く、皆「ご先祖さまに寒い思いをさせたくない」と心を痛めていました。生きている私たちには、すでに亡くなった人たちの存在がずっと生き続けています。その存在がこれほどまでの苦難の中にありながらも、自分たちと共にあるのだという温かいご信心に、大変ありがたいことだと実感しています。
「緑の真珠大島」は生まれ変わる
二〇二六年の今、震災から十五年が経ちました。あの日、以前のような平穏な生活が本当にやってくるのか、不安な日々が続いていたことを今も覚えています。しかし大島の人々は、離島という環境の中で培ってきた様々な知恵で、いつも前を向くことを忘れず、一歩ずつ歩んできました。
二〇一九年、大島大橋が開通しました。島と本土がひとつにつながったその日、島民の暮らしはまた新たな歩みを始めました。以来、人々の往来が変わり、島の景色も少しずつ移ろいながら、今日もまた変化し続けています。
かつての大島の姿が戻ることはありません。しかしそれは、もとに戻すことが目的ではないからです。震災を経て、橋が渡り、これからもこの島は何度でも新たに生まれ変わる—そのことを、島に生きる者として深く信じています。多くのご支援に心から感謝しながら、互いの絆を胸に、前へと進んでまいります。
合掌
気仙沼市大島 光明寺 第三十八世住職 千田雅寛(ちだ がかん)
寺庭の思い
以下は、寺庭が、震災当時の記憶と、その後の日々を綴ったものです。住職の手記とともに、当山に生きる者たちの記録として、お読みいただければ幸いです。
女子大生との出会い
震災から四年が経った春のことと記憶しております。関西方面から女子大生三人が当山を訪ねてきました。玄関の窓を少し開けたまま、まだ十代のあどけない笑顔でたたずんでいる彼女たちに声をかけると、「震災のお話を聞かせてください」とのことでした。中に入ってもらうと、それぞれのカバンから可愛らしいメモ帳とペンを取り出し、一斉にこちらを向いて待っています。「何をお話しすればよいですか」と聞くと、「何でもいいです」と言いながら、また可愛らしい顔をこちらに向けているだけでした。
聞けば彼女たちは、高校三年間を受験勉強に明け暮れ、無事進学が決まって一段落したところで、春休みの卒業旅行として被災地を訪れることにしたのだそうです。震災当時、中学生だった彼女たちにとって、東日本大震災はネットやテレビを通じた情報でしかないのは無理もないこと。実際に被災した同世代の若者たちとの間に距離感を覚えるのは仕方のないことと、自分に言い聞かせながら対応しました。当地を訪れてくださる方々との接し方が、年月を重ねるにつれて少しずつ変わりつつあることを、しみじみと感じていました。
当時の惨状や避難所の様子、生活を余儀なくされた方々のこと、離島ゆえの過酷な実情などをお話しし、やむなく土葬とせざるを得なかった経緯に差し掛かったとき、突然一人の学生さんがしくしくと泣き出しました。「私たちは甘かったです。目的も何も持たず、ただの被災地体験みたいな軽い気持ちできました。ごめんなさい」と、手で涙を拭きながら言うのでした。他の二人もうつむいてもじもじしていて、こちらも言葉を失ってしまいました。
ぜひまた訪れて、大学で学んだことを何らかの形で生かしてほしい——そう伝えながら、玄関から三人を見送りました。
震災当時の記憶
震災によってライフラインが寸断されたため、被害の重さを知る由もなく、ただ途方に暮れるばかりでした。上空を旋回する報道関係のヘリにも恐怖を感じ、様々なストレスと緊張から胸が苦しくなり、眠れない夜が続きました。檀家さんの求めに精一杯応えることに集中し、無我夢中の日々だったように思います。それぞれが自分自身のことで精一杯でした。
住職が不在という不安に追い打ちをかけるように、気仙沼湾に流出した石油タンクの油に住宅火災の火が引火して、湾内は文字通り火の海となり、あっという間に大島へと燃え広がり、火の手は寺のすぐ近くまで迫っていました。私は火災に備えて、本堂内のご本尊様などを搬出する決断をしなければなりませんでした。緊張の連続だったためか、檀家さんの手を借りて運び出したことや、どうやって人手や運搬のための車を集めたのかなど、記憶が今もなお錯綜していて、あの時の行動が整然と思い出せません。考えるだけで当時の緊張が蘇り、思わず身震いさえします。
最も堪えたのは「神も仏もない地獄だよ」という言葉でした。そう言われるたびに言葉につまり、しどろもどろになる瞬間を何度も経験しました。大自然の脅威に怒りの矛先を向けるやるせなさは、どうしようもないことだとわかっていても、心が折れてしまいそうな思いに呆然とする自分自身が情けなく、無力さを感じました。
春彼岸の光景
あの日から十日後、春彼岸に入りました。墓参に訪れる方が近年になく多く見えたのは、私だけではなかったと思います。「神も仏もない」……ご先祖様も耳の痛い思いをされたことでしょう。それでも御前には、いつものようにきれいな花やお供え物が備えられ、墓石に語りかけながら手を合わせる姿が多く見られました。食べるものもままならない状態の中で、わずかな支援物資を、自分たちより先にご先祖様にお供えしていたのです。献花さえも入手困難な状況の中、やり場のない辛い思いを温かく受け止めてくださったご先祖様に感謝を捧げながら合掌する人々の姿が、今も目に焼き付いています。
今に至る
乏しい知恵を絞りながら、周りの方々の気遣いやご協力に助けられて一歩ずつ歩みを進めてきたことを日々実感しつつ、今に至っております。
今は、震災時の搬出の際に一部破損してしまったご本尊様の修復が済み、無事にお帰りになっておりますが、よろずの煩悩を戒めてくださる不動明王様のお姿が、長年の煤汚れをきれいにしていただいたおかげで、ますます威厳を増し、拝するたびに私の中の弱さを見透かされているように感じて、思わず合掌している自分に苦笑いしてしまうのです。またいつかあの学生さんたちが来てくださったら、ぜひご本尊様のもとへご案内したいと思っています。そのときにはきっと、希望に満ちあふれたお話を聞かせてもらえることでしょう。
合掌
気仙沼市大島 光明寺 寺庭